ずっと工事中(ヨシノダ・ファミリア)

海にいるのは

 アメジオは思い出していた。幼い頃この海岸沿いの街で過ごした日々の事を。

 母に連れられ砂浜で貝殻やシーグラスを拾って遊んでいた。その時、穏やかな波の合間を、光が跳ねたのを見た。太陽の反射にしてはやけに眩しい、金色の光。そしてその後のことを思い出そうとすると記憶がプツリと途絶えてしまう。次に思い出すのは病院の真っ白な天井と心配そうな母の顔。後から海で溺れたのだと聞かされて、果たしてそうだったろうかと考える。考えるが、思い出せなくて、ただ、その頃から父の姿を見なくなったことは覚えている。

 海辺の街を離れて暮らし、気付けばエクスプローラーズに身を置き、他の構成員たちとしのぎを削るような日々を送っていた。

 その頃だった。フリードと出会ったのは。

 アメジオは隣で一緒に大海原を眺めていたフリードにチラと視線を向ける。
 あれからどれだけ経ったろう。
 はじめは敵対関係だったフリードと、今はこうして肩を並べている。不思議な感覚。
 アメジオの視線に気付いてか、フリードがアメジオを振り向く。
「アメジオ」
 人好きのする蜂蜜のような笑顔がそこにあった。
「そろそろホテルに戻ろう。身体、冷えちまう」
 今、二人はただの顔見知りから友人関係のような親密さを経て、それよりももっと踏み込んだ関係にある。それは手をつないだり、唇どうしを触れ合わせたり、互いの体温を感じ合うような、そういう関係。特別付き合おうだとか約束を交わしたわけではないけれど、会えば肌を重ねる程度には近い。この状態に何か名前を付けるとしたら、恋人同士、という事になるのだろう。恋人同士……ライジングボルテッカーズのリーダーとエクスプローラーズの構成員だったアメジオと。まるでロミオとジュリエットだと、アメジオは思う。いやしかし、あの恋愛悲劇に例えるならば二人にやがて訪れる結末は……やめよう、この想像は。何と言っても最早、ボルテッカーズもエクスプローラーズも関係無いのだ。アメジオは取り留めのない思考を頭の中から追い払い、フリードの呼びかけに答える。
「俺は、もう少し海を見ていたい」

 フリードに「二人でどこか小旅行に行こう」と誘われて、承諾したのはひと月前の事だった。どこか行きたいところはあるかと訊ねられ、思い浮かんだのがこの街だった。幼い頃に暮らした街……それもあるけれど。

「そうか」
 フリードは答えて、その場にとどまろうとする。
「一人で大丈夫だ」
 先に行けと促せば渋い顔をしている。
「大丈夫だから」
 言外に一人になりたい事を察したのだろう、それでようやくフリードは「わかった」と頷いた。
「暗くなる前に戻れよ」
 フリードは何度も振り返りながらホテルへと足を向ける。そこまで過保護になるのも、無理はないと思う。何故なら、この海で溺れたことがあるとフリードには話したことがあるから。

 それは幼少の記憶とは異なるもう一つの記憶。
 アメジオはこの海で2度溺れている。2度目は、フリードと出会って間もない頃。まだ互いの体温を知らなかった、あの頃。

 その日アメジオは、黒いレックウザについて聞き込みをしていて、偶然この海のそばまで来ていた。懐かしくなってこの砂浜に降りた。不思議な感じだった。まるで誰かに誘われているような、そんな感覚。
 岩場で何か光った。何があるのかと足を向けた。波打ち際。そこで、海に落ちた。落ちた、というのは少し違う。何かに足を掴まれた。あの瞬間の事を冷静に思い返せば、そうとしか思えないのだ。

 波間にキラリと何かが跳ねて、アメジオはハッとして、思考を止める。
 何か、いる。
 アメジオはそれが何か知っていた。知っていて、なぜ来てしまったのだろう。急に思考にもやがかかったように曖昧で不明瞭になった。背筋に冷たいものが走る。早くフリードの元に戻らなければ。
 アメジオは逃げるように海に背を向けた。その背にずっと視線を感じながら。

 アメジオの足を掴んで海に引きずり込んだ者があった。厳密に言えば、それは人ではなかった。あれは、そう。
「人魚?」
 フリードと身体の関係を結んだ頃に、アメジオは思い切ってフリードに打ち明けたことがある。そう、あれは人魚だった。
「もしかしたら、溺れた恐怖で見た幻覚だったのかもしれない……と、思う」
 溺れた時に人魚を見た、だなんて、こんなおとぎ話のようなこと信じられるわけもないだろう。アメジオは半ば防御反応のように先に言い訳を述べた。しかしフリードはいたって真剣な顔をして顎に手を当て「ふむ」と唸る。
「いや、あの辺りは昔から人魚の伝承があったはずだ。案外未発見のポケモンが生息しているのかも……と俺は思っているんだが」
 普段は飄々としてそんな素振りはおくびにも出さないフリードだが、こういった考察を時折語っては、ああ、なるほど彼は学者なのだ思わしめるのだ。
「しかしまあ、人魚ってのはたいてい、船を転覆させたり人を溺れさせたり、凶兆として扱われるものだからな。アメジオが今こうして生きてここにいる、それが何よりだよ」
 アメジオがそれきり黙って目を伏せていると、フリードはそっと口付けをくれた。それから少し、うまく言葉を見つけられないアメジオが、何か言いかけては飲み込み、また口を開いて、どうにも吐き出せない間、フリードもまた黙ってアメジオの手を握ってくれて。
「怖かったな」
 抱き寄せられて、ひどく優しい声で言うから、泣きそうになったのを覚えている。
 ただ、人魚に乱暴された事だけはついに言い出せなかった。

 ホテルの部屋に戻り入り口のドアを開くと、すぐそこでうろうろしているフリードと目が合った。
「あと1分遅かったら、迎えに行こうと思ってた」
 脂汗でびっしょりになっていたのに、気にも留めない様子で抱きしめられる。

 そんな不穏な場所なのに、フリードに「どこか行きたいところはあるか?」と訊ねられて真っ先にこの街に行きたいと、答えていた。
「幼い頃暮らしていた街だから、懐かしくて」
 そう伝えたら、なるほどと頷きながら了承してくれた。
 しかしながら街に着きあの海岸を見たいと言えば流石のフリードも顔を曇らせて。

 そして現在に至る、のである。

「フリード」
 抱きしめてくる力強い腕に、アメジオは安堵する。
「何か、あったか?」
 あやすように背を撫でられて、徐々に整う呼吸。
「フリード」
 何度も名を呼び、確かめる。キスをする。撫でられ、抱き返し、また抱きしめられて、それでも埋まらない隙間を埋めるように、アメジオはそのままベッドへともつれるようにフリードを押し倒す。
「今日は、ずいぶん積極的だな」
 いささか戸惑いを含みつつ満更でもない様子でフリードはアメジオの前髪をかき上げてくる。そのまま頭の後ろまで流された手が首筋に添えられ、引き寄せられて唇を奪われる。貪るように舌を差し込まれてかき混ぜられて、抱えられたかと思えば、軽々と身体の位置は入れ替わり組み敷かれた。
「フリードが欲しい。フリードで、埋めて、一杯にして」
 得体の知れぬ不安から逃れたい一心で懇願すると、フリードの喉がゴクリと鳴った。

「ちょっと、タバコ吸ってくる」
 そう言ってフリードがベッドを抜け出す。アメジオは「ん」と鼻に掛かった曖昧な返事をする。少しの倦怠感とたくさんの多幸感。ウトウトと微睡んでいると、どのくらい経ったのだろう、入り口のドアをノックする音がする。コンコン、コンコンと、少し不規則で不自然なリズム。アメジオはのそりと上体を起こし、そのまま少し様子を伺う。
「あ……アメジオ」
 ドアの向こうの声が言った。フリードの声だ。
 フリードの声、だ。それ以外にあるだろうか。
 アメジオは、ほんのわずか違和感を拭えないまますっかり身を起こすと、その辺に脱ぎ散らかした下着や衣服を身に付ける。それからドアに近づきスコープを覗く。間違いない。フリードだ。
「カードキー忘れたのか?」
 内側からドアを開けてやる。
 フワリと潮の香りがした。ような気がした。
 フリードが立っている。ただ、立ち尽くしている。
「アメジオ」
 ニコリと微笑む。
「……お前、誰、だ?」
 アメジオはジワリと後退する。内開きのドアを閉めるには自分の身体が丁度邪魔になるから。急いでドアを押し出すが、間に合わなかった。それより先にフリードが、いやフリードに似た何かがドアの隙間に身体を滑り込ませている。思い切り挟まれて呻く。耳慣れない空気の振動。アメジオの背筋がぞわりと震える。
「アメジオ」
 腕を掴まれた。振り払おうと力を込めて、しかしそこで、急に思考にもやがかかったように曖昧で不明瞭になる。

「アメジオ! アメジオ何処だ⁉︎」
 胸騒ぎがした。
 足早に部屋に戻るとアメジオは忽然と姿を消して、代わりにドアの前には奇妙な水たまりが残されていた。点々と続く水跡を辿りホテルを出る。そこまで行くと、フリードにはアメジオの行き先が急にクリアに思い浮かんだ。
 弾かれるように走り出していた。
 そしてその場所に、確かにアメジオは、いた。
「止まれ! アメジオを返せ!」
 あの浜辺だった。昼間、アメジオと二人で訪れた。アメジオがかつて人魚を見たと言う浜辺。その海に、アメジオは膝まで浸かっている。
 傍に男がいる。
「クソ……! 何処へ連れて行く!」
 男は歩みを止めない。フリードも急いで海へと足を踏み入れる。フリードの予想が当たっているなら、これ以上進ませるわけにはいかなかった。
 アメジオは、まるでフリードの声が聞こえていない様子で男に手を引かれフラフラと着いて行く。最早波は腰の高さ。一刻の猶予も無い。
 フリードは、意を決する。フリードの予想が当たっているなら、あれは。
「止まれと言っている!」
 呼び掛けながら、フリードは腰に手をやる。そこで男は何かを察したように振り返る。
 フリードは絶句する。
 そこに突然写し鏡が現れたような錯覚。
「お……まえ」
 そこには、フリードがいた。フリードに生き写しの何者かがいた。アメジオを我が物顔で従える姿に、フリードはゾッとするよりもふつふつと怒りが湧く。
「この野郎……!」
 腰にやった手でハンドルを握る。ベルトに仕込んであったシース。一気に間合いを詰め、引き抜いたサバイバルナイフで切り掛かる。
 言語にしがたい絶叫が空気を震わせる。
「アメジオ!」
 男が怯んだ隙にフリードは思い切りアメジオの腕を引く。勢い余って水面に倒れ込むが、フリードの側に取り戻したことに変わり無い。しこたま海水を口に含んだアメジオは、そこでようやく我に帰ると咽せながら身を起こす。溺れる心配がないのを確認してフリードは素早く逆手にナイフを構える。
「水の中は分が悪い。とにかく陸に上がれ」
 まだ状況をよく飲み込めない様子のアメジオに指示する。正面にはアメジオを取り返そうと威嚇する異形のもの。その顔を見ては、アメジオが取り乱す事は想像に難く無かった。何故なら、そこにあるのはバックリと切り裂かれたフリードの顔なのだから。
「走れ! アメジオ!」
 フリードはアメジオの背を叩いた。アメジオが反射的に走り出す。異形がフリードに襲い掛かる。フリードは、迎え打つように拳を突き出し、その手のナイフを異形の喉に突き立てた。

 高く低く、咆哮が暗い空を震わす。
 思わず立ち止まり振り返るアメジオ。しかしその目に映るのは、ただ波間に立ち尽くすフリードの姿、それだけだった。

 フリードは腰のシースにナイフを収めると、海水をその手で掬い、顔をすすいだ。それからアメジオを振り返りザブザブと進む。
「帰ろう」
 アメジオの手を取ろうと伸ばされたフリードの手が、しかし空を切りすぐに引っ込められる。アメジオは瞬時に察する。その手が返り血で濡れていた事を。アメジオは腕を伸ばし、引っ込められたフリードの手を取った。

「アメジオはあいつに気に入られちまったんだろう。だから呼ばれたんだ」
 ホテルに戻りシャワーを浴び直し、ようやく人心地ついたところでフリードは言った。
「本当は今すぐここを離れるべきかも知れないが、夜も遅いし、まあ……もう大丈夫だろう」
 フリードが窓の方にチラリと視線を向ける。その向こうには暗い海が広がっているに違いなかった。
 アメジオは震える肩をフリードに寄せる。
「フリード」
 こつりと押し当てられた額。フリードはその頭髪をそっと撫でる。
「フリード、だよな」
 その問いに、フリードは瞬間言葉を飲み込む。
「……ああ、俺だよ。フリードだ」
 果たして、あの海に沈んでいったものは本当に人魚だったろうか?
 フリードは目を閉じ、そこで思考を止めた。

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